ピアニスト田崎悦子 エッセイ

ピアニスト田崎悦子

エッセイ

ゲオルク・ショルティ| シカゴを一級品に仕上げた自信

ピアニスト田崎悦子

一九七九年一月十八日夜。
シカゴ・オーケストラホール。
鷹のように鋭く高尚な二つの目が私の肩に注がれている。時間が止まったようだ。その視線を感じながら私は、ピアノの椅子の上にゆっくりと上半身をととのえる。あの目が私の体の真ん中にぴったりと焦点を当ててくれている。気持ちがいい。落ち着いている。私はゆっくりと自分自身の目を上にあげる。今まで定着して私の集中を待っていた視線が、不思議な時間と静けさを持って私を受け止めた。と、その瞬間、彼の右腕が宙を切るのが見えた。私の体は自然とそのリズムに乗せられ、私はバルトークのピアノ協奏曲第二番のアウフタクトを弾き始めていた。……ショルティの指揮するシカゴ・シンフォニーとの私のデビューの第一夜がこうして始まった。

Sir George ―― ショルティはそう呼ばれている。イギリス市民権を取ってからエリザベス女王に「卿」の称号を与えられた彼は、それにふさわしい人間であり音楽家である。道楽者の外側だけ金ピカな貴族たちとは違う。人生の一分一秒むだなく生き、そのあらゆる体験によって得た知識が自分自身にも人にもむだを許さず、最もよいものしか望まない、あの気高さと厳しさとを持った本物の貴族である。

彼の体自体がそのことを物語っている。まず、バランスのよい、しっかりとした骨格があの体を構成し、体がどこに、どう動こうともそこには焦点があり、ズシリとした重みを与えている。その上、筋肉は引き締まり、しかも柔軟に全体をつくり上げている。彼の体とその動きを見ていると、音が聴こえなくとも彼の「音楽」が聴こえてくるようである。構成と重心と柔軟性のある体には「静けさ」が伴っている。どんなに激しく燃えても、そこに波が引いた後のような「安らぎ」がある。人は、彼の中にある人間的炎と温かさ、充実して生きてきた人の持つ決断力と、そこから生まれる自信、それに伴うエネルギーと喜びを彼の音楽に感じ、おのずから魅せられてしまう。

私は彼のナマ演奏を二年前まで聴いたことがなかった。シカゴ・シンフォニーとショルティの音楽会の切符は、いつも数ヶ月前に売切れてしまうからだ。シカゴ・シンフォニーは、一九六九年にショルティが来る前にライナー、マルティノンなどがいて開拓されたが、ショルティ以来はついに王国になってしまった。“インテリ”ニューヨーク音楽族が自分たちの町のオーケストラを尻目に、シカゴ・シンフォニーを聴くためにカーネギー・ホールに殺到するのだ。

シカゴはいつ行っても寒い。ミシガン湖からの風が容赦なく着ているものの中を通って行く。あの日もそうだった。四年前、はじめてショルティにオーディションをしてもらう日だった。あまり寒くて、これから世紀の大指揮者に会って、私の演奏を聴いてもらうのだ、という実感がなかなかわいてこなかった。
しかし、「Sir Georgeがお部屋に来るように、と」と、マネージャーからいわれた時、私はリハーサル後の楽屋の小さな彼のお部屋に、子供のようにはしゃいだ気持ちで入って行った。その時だった、私が、あの鷹の目を初めてはっきり見たのは。あの、厳しさと優しさと集中力が私の体をすっぽり包んだのだ。「うん、とても良い」といいながら、彼の目は何か一心に集中し、適当な言葉をさがしているようだった。むだな言葉は一切口からもれない。もれた時はそれが重大な意味をもって発せられる。でもその間中、彼の周りの空気は暖かい。
「ニュアンスもとても良いけれど、あなたは音楽を速く造りすぎる。テンポではなく、一音一音を最後まで待って弾くようにしたらもっと良くなるよ」。私の弾いたリストを、とてもほめてくれた。
外に出た時は、ミシガン・アベニューはぬくぬくと温かく感じられた。オーディションの結果など、どうでもよかった。彼は私の音楽をあんなに注意深く聴いてくれたのだ!それから数ヵ月して私のマネージャーから、ショルティとシカゴとの定期が決まりそうだ、という知らせを受け取った。その時は実感がなく、とても信じることはできなかった。
それから約一年して、ショルティとシカゴ・シンフォニーが来日した。私もちょうど日本にいたが、東北回りの音楽会があって、またもや聴けそうもなかった。でも、この際何とかして彼の音楽をナマで聴かなくては、とても彼と一緒に音楽を創造することが出来ないのではないかと、恐ろしい気持ちがした。東北回りのスケジュールには一日空きがあり、その日、ショルティは大阪の本番だった。私はちゅうちょなく大阪に飛んだ。
私は演奏会へ彼のお供をして行くことになり、ロビーで彼を待っていた。エレベーターからゆっくりとこちらの方に歩いて来る彼を見た時、オーディションの時の印象よりもとても大きな人だという気がした。彼の周りには王様のような気品が漂っている。オーディションの時も感じたことだが、あんなに鋭く、気品のある方なのになぜか私にはおじけを感じさせない、土のにおいと温かさが彼の中に同居しているのだ。
「音楽会に来てくれるそうだね。ここで会えて、とてもうれしい」と彼はいった。言葉にも姿勢にも決して誇張したところがない。車の中で、私がついこの間、ハンガリーへ行って来た話をすると、「私は一九四六年以来母国に戻っていない。でも、ことしはじめて演奏をしに帰ることになった。きっと、あなたの方が、私の国の状況を良く知ってるね」と、遠くを見る目つきになった。ハンガリーから亡命した人々の背後には、複雑な感情や理由があることを、私も少しは知っている。その時私は、ふっと彼に影を見たような気がした。
はじめてナマで聴く彼の音楽は私の胸に、ビリビリと伝わって来た。あの、骨格のしっかりした、むだのない構成、音楽の方向がいつもはっきりと示されているフレージングなど、それぞれが私たちの耳を、心を導いていく。オーケストラのどの部分にも「音」には焦点があり、それらが重なり合った時にハーモニーの輪郭がぱっちりと決まり、それが次へ次へと、あやを持って動いて行く。地球の中心からわき起こったエネルギーが地面を動かすような不可避の力をもって――。
音楽会の後の小さなパーティでは、彼と二時間程の楽しいお話をすることが出来た。美しく若い奥様はいろいろなことに、細やかな気を配っていた。彼女は二度目の奥様で、ナレーターとして活躍しているほか、シカゴ市民には、シカゴの“ファースト・レディ”と呼ばれているくらい人気があって、活発に市民とオーケストラを近づける役割を果たしている。夫婦の間には可愛い二人の娘がいる。この婦人と結婚される前のSir Georgeは名高いバッチェラーであり、美しい貴婦人たちとデートをし、気に入った婦人には、白いミンクのコートを贈るのがならわしだったといううわさもあった。今はすっかり良いパパになって、子供たちの写真を上着の内ポケットにひそめていて、折があれば目を細めながら、それを人に見せている。

そのパーティの席で話がセントルイスのことになった。というのはその時、私はセントルイスのワシントン大学で教えていたのだ。そこの声楽科には昔メトロポリタン・オペラ歌手だったシャバイ先生がいたが、病気のためその年引退してフロリダに住んでいた。シャバイさんと Sir George は若いころ机を並べた仲で、スイス亡命時は氏も一緒だったということだ。その昔懐かしい友達が病気と知って、彼は顔をくもらせ、フロリダの住所を私にたずねた。アメリカに戻ったある日、私はシャバイさんから手紙を受け取った。ふざけん坊の彼は、その時こう書いて来た。「いったい、エツコは私になんてことをしでかしたの!?今日は私の古い古い友達、それももううんと有名になって、私のことなんてすっかり忘れちゃったと思っていた人から手紙が来たんだよ。私の体の具合はどうかって。そして、そのことがとても気になっているって」。Sir Georgeは、古い、もう名もない病気の友に、世界のどこからか心のこもった手紙を送ったのだ。

ことし一月の私のシカゴでの演奏会は十八、十九、二十日と予定されていた。ニューヨークにいた私は、十五日にシカゴへ向けてたつつもりでいた。ところが十五日にまたシカゴのエアポートは大雪のため閉ざされてしまい、結局十六日やっとシカゴ行きの少ない数機の中の一つに乗ることが出来た。十七日はオケとのリハーサルが一時からだったが、Sir Georgeがその前に私と二人だけで曲に目を通したいというので、私は十二時にホールの上の事務所の一室で待っていた。オフィス中が雪のことですったもんだしていた。事実、明日の音楽会が予定通り行われるかどうかもわからなかった。

Sir George はきっかり十二時にやって来た。外は吹雪で彼の顔は赤らんで、ドクトル・ジバゴ風のロシア帽が彼をタルタル族の王様のように見せていた。「エツコしばらくだね。こんな風に大騒ぎしているけど、明日の音楽会は必ず行われるから心配しなくていいよ」。本当のところ、この大きなチャンスを雪で流されたら、いつまた出来るかわからない。彼は、そういう立場にいる私を安心させてくれたのだ。ピアノのある部屋に入り、彼は帽子と長靴を脱ぐと、「さあ、ちょっとはじめからやってみよう」と、私のすぐ前に立った。彼の鼻歌交じりのオーケストラ・パートが楽しくて、また彼の音楽に対する興奮が私の体にじかに伝わってきて、私は自分が今まで一人では創造できなかった世界へグングンと入っていった。その興奮と喜びが部屋中にふくらんで、吹雪の外にまであふれ出ていくような気がした。彼の鼻歌はとても感じが出ていて、管や弦の音色をよくとらえて歌った。ティンパニーのところは雷のようななりで……。

彼と私がその音楽のうずの中にひたっている最中、彼の秘書が入って来た。「Sir George、オケの楽員が明日のゲネプロを十時からでなく、午後二時ごろから始められないか、ということです。楽員のほとんどが郊外に住んでいるので、この雪の中で一日に二回も往復するのは……」。急にSir Georgeの顔つきが硬くなり、彼は秘書にこういった。「私は楽員とオーケストラのためなら何でもする。でも、もっと大事なことは、音楽会をすばらしいものにすることだ。二時からゲネプロで八時半に本番では、その間に休む時間が足りない。楽員も私もエツコも、午後はゆっくり休まねば美しい音楽は創造できない。十一時がぎりぎりというところだろう。それ以後はどうしてもダメだ」。ここに、最高以外の何ものをも望まない人の、厳しく美しい顔を、私は見た。それはピリリとしていて、人に逆らう力を与えない、絶対的なものだった。秘書は何もいわずに目礼だけして引き下がった。

その日のリハーサルと次の日のゲネプロで私は、大阪でナマで耳にしたあの管のすばらしくさえた音、弦のピアニシモ、大波のような自然なリズムの中に、自分の音楽を織り込ませていればよかった。

初日。本番。彼はウェーバーの「オイリアンテ序曲」を弾き終え、舞台のすそでいつものように紅茶を飲んでいた。「今日は、この雪なのに満員だよ」と、おっしゃる彼の体はくつろぎ、目は優しかった。私は、ほっそりした、クラシックな青いドレスを着て彼の前に突っ立っていた。「その服は私にモーツァルトの『魔笛』を思い出させる。美しい」といってくれた後、ゆっくりと紅茶をすすった。ステージの真ん中にピアノが運ばれていくのが見える。その時、彼の人間性――人に与えることに出来る大きな温かさ、人生とそのあらゆる路地を知っている芸術家――を最もよく表す、尊い言葉が、緊張している私の胸に深く刻み込まれた――「忘れちゃいけないよ。明日もまた小鳥がさえずるんだよ」。彼は立ち上がり、後から私の体を包むようにしながら舞台の方向へうながした。

(たざき・えつこ=ピアニスト)

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