田崎悦子 エッセイ

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こころに残る故郷の風景 |土間のある家

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思い出の中に、そこだけ切りとって一枚の絵にしたような風景がある。その風景には、これといった思い出話もなければ、特別な意味があるわけでもない、ただ一瞬そこでとまってしまったような、動きも、においも、香りも、立体性もない印象といったほうがよいのかもしれない。

― 境がなく、途方もなく広い庭 ― 雑草さえなかったような気がする ― の真ん中に大きなわらぶき屋根の家があり、そのおもてには戸もなにもない入口がぱっくりと口を開けている。外から見るその入り口は、中が真っ暗で、とてつもない秘密をもって私を迎え入れようとしている。五歳くらいの私は恍惚となって、その暗い入り口に身をすりよせていく。入り口のすみまでソロソロ行って、思いきって目を一生懸命にひらいて中を見てみたら、そこは土間になっていた。湿気のある茶緑色のその土間は、私が生まれて初めて見たものだった。中は暗くてこわいのに、なぜがその土は私をやさしく包むような色をしていた。入り口でその土の上に手のひらをそっとのせてみると、それはひんやりしているのにあたたかく感じられた。暗さになれてくると、広い土間の奥のほうは一段と高くなっていて、そこには、いろりがあった。奥の深い家で、そのいろりのむこうには何があるのか私の記憶は教えてくれない。

風景というのはこれだけだ。これ以前も以後も時がとまっている。

そう。そして今。

あれから数十年と数か国と数えきれない笑いと涙を経て今、私は土間のある家に住んでいる。

あの、思い出の中にように広く、茶緑色の、そして、ひんやりとあたたかい土間のある家に。

思い出の土間のある家は、房州の祖母の生まれた家だった。私の祖母はもう十年以上も前に八十九歳で亡くなったが、私の中にある“土”への愛着は、祖母からの贈り物だったと思う。祖母は、日本のおばあさんにしては、ふとっちょで、足が長く、ゆたかなおしりとおっぱいを持っていて、亡くなる前まで背筋がピンとしていた。私は高卒で音楽の勉強のためアメリカに留学し、そのまま三十年以上も日本には住まなかったが、祖母が亡くなる前の日まで、たまたま日本公演のために日本にいて、病院を訪れることができた。うつろになった目の祖母を毎日のように病院に訪れながら、たくさんお話をした。

「おばあちゃま、今、いちばん何がほしい?」と私が聞くと、しばらく考えてから、「山に流れている小川の水をすくって飲みたい」と彼女が言った。これは私に対する祖母の最後の言葉だった。

その晩の飛行機で私はニューヨークにもどり、家について留守番電話のメッセージを聞くと、いちばん最後のメッセージに妹の声が入っていた。

「おんちゃ、おばあちゃまが今日亡くなりました。すばらしい顔だった。病院では、おんちゃが最後に話したのよ」と。

三十年の外国生活を終えて、日本生活をはじめた今、私は自分で設計した家に土間を入れた。山々にかこまれた畑の真ん中には、自分でつくった自分の故郷が、今、ある。その土間には、鈴虫が住んでいるらしく、夜になるとりんりんと大きな声でうるさいほど鳴きだす。

東京生まれでニューヨーク育ち、そして世界中をスーツケースひとつで渡り歩き、音楽をしながら宿借りのように生きてきた私に、ようやくと土間のひんやりとしたぬくもりがもどってきた。

故郷は、今、ここにある。

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