田崎悦子 エッセイ

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「雨に」

日本に移り住むようになってから傘を1本買った。

30年間住んでいたNew Yorkでは、雨が降っても、地下鉄やバスに飛び乗ってしまったり、街の面積が東京にくらべてうんと小さいのでどっちみち歩く距離が短かったり、傘を所有しなくてはならない程の雨の量も頻度も少なかった。

東京ではひたすらうっとおしい雨だが、ここ八ヶ岳に越して来てから見る雨は、まぎれもなく日本の雨だ ― 細く、何時間もツラツラと、やさしくあたたかく。細おもての女性の美しい毛筆のような。冬をのぞいてどの季節にもそんな雨が数日間降り続く。

その雨は、ゆっくりと草木をつたってしたたり落ち、地面に浸透してゆく。地盤がゆるみ大地がさらに大きく、やさしく草木をいだくのだ。

向かいの山々が、うすい絹の衣を何枚か重ねてまとったようなはじらいを持って淡いむらさき色にけむっている。

忘れた間隔をおいて近くの牧場で牛がモーと言う。山のつばめが2羽、たわむれながら庭先の畑の上に舞い上がってゆく。雨の中、つばさは重くはないのだろうか?

胸の1部にかすかないたみを感じながらも最も心が満たされるのは、こんな雨を何時間も見ている時だ。幼児に脳裏のどこかに焼きついたこの日本の雨、そしてそれにまつわる香り、風景、音。これ無くして30年、私はどうやって生きてきたのだろう。

雨の音とともに静かに静かに”時”が流され、全ての感覚が体内のしんに向かってゆっくりとエネルギーを発散する。雑念がとけはじめ、私は草のように、花のように天を向かいて立っている。すべてがやわらく、いとおしい。

そうしているうちと、その体のしんのほうから、ある種の音が聞こえてくる―それはいつものバッハの鍵盤音楽なのだが―。

その音はオーケストラのようであり、声のようでもあり、また鍵盤楽器のようでもあり、それら全部一緒のようでもあり同時にそのどれでもない、音楽そのものの音、と言ったらよいのだろうか?

刻々変化してゆく音の型が指先でふれた立体物のように感じられ、目をつぶったままその動きに導かれてゆく。とじた目の中に、現実では想像のつかない色の踊りが重なり、彩り、からんでは解けながら通りぬけるのだ。そしてそこではすべてが同居しながらperfectなharmonyをかもし出している……

たましいの叫びとユーモアが、
耐えられない程の緊張感と和解が、
dramaticにしかもたんたんと、
オープンで親密に、
複雑でかつシンプルに、
高尚にそして土くさく、
神々しくそのくせ sensual に。

山のつばめが今度は3羽、私の窓めがけて速く、
低く飛んで来たと思うや、ひらりと天に舞い上がった。

牛がまた、モーと鳴く。

淡いむらさきの衣が青みをおびて来た。

空には相変わらず切れ目はなく、雨はたんたんと降り続いている。

明日の朝もし雨が上がっていたら、前の畑のとうもろこしが10cm程のびて見えるだろう。雨の時にしか聞こえてこないあの音を、今のうちに聞いておこう。いや、生きているうちにいつか実際に音で聞いてみたい。

それが自分の音だったら、
なお、   いい。     

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