田崎悦子 エッセイ

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「ドイツロマンをもとめて…」 その10 最終回への想い

10数年前私はあてどもなくヨーロッパの街々をさまよい歩いていた。20年余りひたすら一人で格闘し続けてきたニューヨークで、音楽的な壁にぶちあたり、ピアノをやめようとさえ思いつめていた。それ以前にも壁はいろいろな形を持って私の前に立ちはだかったが、その時の私の空虚な心はそれまでのニューヨークの音楽生活から逃れて白紙になることを渇望していた。白紙になった所に、ひとすじの光でも入って来ればそれをたぐってみよう。音楽でも、それ以外のものでも何でもいい………そう思って旅に出た。

思いがけない出会いが、私をアルプスの見える町に引きよせた。ある日、サロン・コンサートで聞いたシューベルトの、「冬の旅」の演奏に私はひとすじの光を見いだした。まちがいない、これだった、ニューヨークという国際的な土壌の中で、すきま風が体の中を通り抜けるような虚しさを感じながら、長いこと私の求めていたもの………その演奏の一音一音、歌詞のひと言ひと言がなんと鮮やかにシューベルトの意図したことを表現していたことだろう!さらに歌手自身の作者に対する徹底的謙虚さが、反対にその歌手の主観を浮き彫りにしていた。その演奏は怖いほど、私の心の中に土足で入って来た。

運命は私に、その歌手の伴奏をする機会を与えてくれた。シューベルトの「美しき水車小屋の娘」、シューマンの「詩人の恋」等々、私は純粋に音楽すること、作曲家の肌の下に入っていく事が、なんと限りなく深い仕事であるか、幸せいっぱい感じながら勉強し始めた。その延線で、シューマンの「子どもの情景」を少しずつさらいだし、気がついたときには、「クライスレリアーナ」「ダヴィッド同盟員の踊り」、さらにはベートーヴェンの最後のソナタ等を白紙に戻ってやり直していた。アルプスの見える町にいってから約2年が過ぎていた。その間に私は「コンサートする生活」から「音楽する人生」に脱皮したような気がする。ひたすら音楽の内側を感じとりたい、そして無意味な音は一音たりとも弾きたくない、失敗してもなんと言われても、その努力だけはしようと、誓い続けた二年間だった。

このひとすじの光は私をまた音楽につれもどし、それまで知らなかった奥の知れない世界の淵に立たせた。一つの作品の深さを知ることは、同時に自分自身が全く裸になって心の声を聞き取らねばならない事でもあった。

しかし、それを人前で披露する事はそれまでにないほどの勇気が必要だった。ついに「出来なくてもともと」と思いながら「オール・シューマン」「オール・ベートーヴェン」を2週間隔てて東京で実行したのは今から丁度10年前だった。「音楽する事」を本当に人前で出来るのだろうか?寝られず、食事がのどを通らない日が続いた。

崖から身を投げるおもいで、その2回のリサイタルを終えた時にはもう次のプログラムが頭の中をいっぱいにしていた。ひとすじの光はこのようにして私を「ドイツロマンをもとめて…」のシリーズに導き、私に波瀾万丈の旅をさせつつ今回に至った。

10回目を迎えるにあたってたまたまシューベルト生誕200年と、ブラームス没後100年が重なる今年、天からの声を聞くように「三大作曲家の遺言」のプログラムが私の内側からわきおこった―――この2人の作品で特に私の心に響く曲を考えていたら、シューベルトの遺作の三大ソナタとブラームスの最後のピアノ小品が浮かんで来た。これは3回に分けてプログラミングをしたらどうか、と思うや否や、もうあとはベートーヴェンの最後の3つのソナタしかない…と、必然的に、あっという間に決まってしまった。

3人の晩年はそれぞれ異なっているが、一番若くて晩年を迎えてしまったシューベルトの遺作のピアノ曲に、私はやはり若さのみなぎるバイタリティーとエネルギー、そして外向的な感情表現を感じる。これらの曲はオーケストラのために書かれているかのように壮大だ。それにしてもこの死の年に彼は何という絶品を書き残したことか!ピアノ曲にかぎらず、歌曲、室内楽等、彼の創造性は死の寸前まで、神の指示を受けたかのようにほとばしる。ベートーヴェンとブラームスの晩年の作品はどんどん内向性を帯び、ベートーヴェンは弦楽四重奏に、ブラームスはクラリネットという楽器の「声」に表現を見いだしたように思える。その声は、2人の晩年のピアノ曲にも反映し、ブラームスの間奏曲においてはクラリネットの暗く、豊かでありながら、管という筒(つつ)の中に風を通して送り出される音には、耐えがたい空虚さを感じずにはいられない。彼の場合は、その2年前にすでに全作品を整理し、遺書を書き始めた。そしてこれらの小品集を「自分の墓石の子守歌」と呼んでいる。ベートーヴェンの最後の3つのソナタには、果てしないファンタジーがあり、そのどれもが神と人類に対する勝利の余韻を残し、私に永遠の宇宙とその「輪」と「和」を信じさせてくれる。

これらの曲に関しては今さら私はこれ以上何を言えようか。ひたすら私の心の奥で感じているたとえようのない深さを、表現出来ることを祈るしかない。

今日の私を造っているものは感謝の気持ち以外の何ものでもない。まず、この10年間私に「音楽する事」の深さと美しさを教え続けてきてくれた作曲家達――バッハ、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、リスト、ブラームス、ベルグ(「ドイツロマンをもとめて…」シリーズで取り上げた作曲家達)と、彼等が人類に残していった、かけがえのない創造の数々に………。

又、私の音楽家としての葛藤を、「ドイツロマンをもとめて…」シリーズを通して見守り、応援し続けて下さった日本の音楽愛好家の皆様に対し………。

そして最後に、未熟さをいやというほど意識しつつ、どんなに失望しても、“音楽する事”から目をそらさない努力を精一杯させてもらってきた今日の自分が在る事に………。

(1997年)

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